来年からの授業計画みたいな。
自分で言うのもなんですが、上越教育大学の大学院に来て、西川研究室に入って、『学び合い』について割と真面目に考えて、
思うことは色々ありますが、
来年の頭からはオーソドックスな(スタートブックで書いてあるような)『学び合い』をしようと思います。
もちろん、クラスの状況や科目の特性(少人数とかね)を見ながら最終的な判断はするので、大筋での合意という感じです。
大学院では学校支援フィールドワークというのがあって、現場に入って授業をさせてもらったり、諸々のお手伝いをさせていただきます。
そこで1年間『学び合い』をしているクラスを見させてもらったりしていました。
正直な話をすれば、授業をしている間など少しだけ窮屈に感じることがありました。
その理由は色々ですが、今回の話に関係するところだと、「思っていないことを語らなければいけないことが多かった」というのがあります。
たぶん、僕は本質的に『学び合い』に向いていません。
集団の中では色々な方向性でおよそ異端のポジションに落ち着きます。
誰かに助けてほしいなんて、ここ数年思ったこともないです。
自己中心的だし、
座右の銘は「余計なお世話だよ、ばーか」です。
少なくとも、今の僕が『学び合い』をそっくりそのまま実践すれば、それは嘘になります。
けど、その上で、とりあえず、来年のスタートはオーソドックスな『学び合い』をしてみようかなと。
第一に、『学び合い』をすれば揺らぎはあれど、こんな感じのクラス状態になるだろうという予測があるから。
第二に、やり方なら大体わかっているから。
第三に、非常勤講師として授業をしてみて自分の思想をストレートに伝えるだけでは『学び合い』以上の状態にはならないから、
『学び合い』に関する経験知は結構あります。
謙遜すればいいものを、ここに関しては自信があるので、
まぁ、失敗はしないと思います。
どこまでうまくやれるかはわかりませんが、とりあえず、体裁くらいは整えられます。
非常勤で色々と試したりもしましたが、なかなか『『学び合い』以上の状態』にはなりませんでした。
という、ネガティブよりな理由を挙げつつ、守破離の『守』は大事ですからね。
僕はそういう王道的なのは嫌いで、自分でどんどん先に進んでしまいたくなりますが。
ただ、自分の思想やあり方と生徒に語る言葉の間に矛盾があるのが、どうしても整理が付きません。
『学び合い』の生き方が理想だよ、なんて誰かに言われても「余計なお世話だよ、ばーか」って思っちゃう反抗期少年なので。
考えても何かが生まれるような気もしないので、大綱としてね。
おわり。