不規則な生活リズムで。

人生の連続性と変異に愛情をひどく感じる日々です。

 

僕の記憶を辿れば人生の連続性はおそらく高校生のあたりから始まっていて、もう少し無意識の価値尺度を考慮すれば5才の時から始まっていて、ともかく基本的には人生は論理的なもので出処進退の選択には因果がある。

 

実は大学1年生の時だけサークルに入っていた。

何をしていたかということには全く関心がなく、サークル終わりに開催される外飲み(大学前のベンチでただ酒を飲む時間)が楽しくてたまらなかった。中でも僕の19回目の誕生日には焼肉の後にコンビニで安いワインを大事に抱えて終電間際の九段下のトイレで眠ったことは人生で最も幸せな数時間のうちの1つだったのかもしれない。そこからサークルを辞めた日の外飲みで師匠と清水さんと中山さんに見守られながら大号泣した日も、大学4年生の終わりに宇佐見くんに見守られながら朝焼けに泣いてしまった日も、ずっと繋がっている気がする。

 

そんな連続性の美しさを何歳も年下の子に求めるのは酷だと思う。

上から目線の大人にはたまらなくイライラしていたけど、僕がそのクソみたいなジジイに成り下がった時にそう思ってしまうのは過去を振り返ればどうしようもないことなのかなぁ。

 

西川純はまさに面影になって抽象的な存在になったけど、それでも思い出す言葉の中のひとつを引用する。

 

アダムは知恵の実を食べたために楽園を追放された。アダムは後悔しただろうか?

きっと、しばらく考えて、後悔しただろう。幸せは何かをなすことによって得られるものではなく、安定した人間関係の中で生まれるから。

でも、知恵の実を食べてしまった。

どうしよう。

 

もはや甘酸っぱい青春の日々はとっくに過ぎて、ニコニコとグダグダと息をしてる僕ならば、この言葉をもう少し曖昧に解釈できる気がしている。

 

知っても知らなくてもどっちでもいい、もう一度自分が果実を食べる場面に出会した時には過去を確かめて自分で選べ、生徒がその場面に出会ったら黙って見守れ。

 

今も心の中にミニ西川がいるかと言われたらいささか怪しい。

それは忘れてしまったからなのかもしれないし、僕が都合の良いように吸収してしまったからかもしれない。

それでも彼の同じことをしつこく言ったり書いたりする癖からして、何度も言われていない言葉は胸に沁みる。

 

僕、明らかにいけないことを少なくとも2回大学院時代にしてるんですけど、一度も西川純から怒られてないんですよ。

不思議でしょ。

 

一連の支離滅裂な話が今の僕にはたまらなく繋がって感じる。

黙って見守れ。

やっぱり、これが1番難しいですよね、わかってきました。

 

それと、誰かどの顔して見守るとか舐めたこと言ってんだよと思う方々、お前らの小さい脳みそを目一杯使った馬鹿みたいな考え方では到底分かるわけないですが、クソヤンキーだった頃のちょうどその先に今があるんですよ。

 

おわり。