武士になりたい、27歳で死にたい。

まず、タイトルの意図について言及しましょう。

元ネタはキュウソネコカミの『DQNになりたい、40代で死にたい』

清水富美加のラジオでかかっていたであろうこの曲のタイトルは完璧すぎて感動したのを覚えています。

最近、幸福の科学の長男が出てるYouTubeを見ていたから、なんとなくこのタイトルで書いとこうと思う。

 

武士になりたいに関してはテレ東bizの動画を見ていた時に決まりました。

ウクライナ情勢に関してウクライナ人の方が話す動画はなかなかに考えることがあった。

理性的で知性を感じるその人がウクライナ軍がロシア軍捕虜を殺害している疑惑について言及した際の言葉には戦争を感じざるを得ない複雑性があった。

コサックと武士を重ねるその人の言葉には真心と邪心が混在していた。

ウクライナの問題についてはどこかで思考と感情の流れを記述しなければいけないのは知りつつ、なかなかまとまらないのと、きっとまだ記述をするには句読点が足りてないと感じているのでしょう。

武士道とは死ぬことと見つけたり、倫理の勉強でさらっと入れ込んだ知識は戦争の役には立たなかった、ペンは剣には勝てないのでしょう。

 

とも言いつつ、このタイトルを確定させたのは4月のはじめ、ちょうど佐々木朗希が完全試合をした翌週の日曜日でした。

清水富美加のそれは今それを書く動機になっただけのことで、おそらくこれが主題でしょう。

出処進退の大抵は決断した時以上にはうまくいかない。

クラスのアイドルのあの娘が部室で3Pをしてたり、5時55分が特別だと教えてくれたイケメン君はマルチにずぶずぶだったり、

テレビ中継を見ながらAV女優もプロ野球選手もみんな年下か、などとひねくれる僕にははなから何も始まっていないのでしょうけど。

 

朗らかな少年がこんな卑屈になってしまったのはなぜなのでしょうか。

この類の嫉妬には身に覚えがあって、安定の中にいる時にどうしようもなく日々がつまらなくなったときによく訪れます。

去年の漢字は「悠」だったのにも関わらず、新年度の個人的目標には「もう1度、感情の複雑さにおどろこう」などと決めいているあたり、経験から何も学んでいないのを感じる。

何か新しいことを望んでいるのは知りつつ、なるべく急がずに漸進的に感情を変化させるようにしている。

非常にデジャブで、僕はいわゆる熱しやすく冷めやすい性格なので。

 

僕はもう26歳なので、生活のためにも正しい選択をしなければならないと知っているので。

 

そんなことを考えつつ、仕事中心の日々はぬるぬると進んでいる。

いろいろなことに慣れてニコニコしてれば1日は終わっていく。

大嫌いな老害にならないようにただただ見守ってばかりいる。

そうすればするほど自分のいらなさを感じたりする。

理想的だよなーと感じるのと同時にもうここでやるべきことはおおむねやり終わってしまったのかなとさみしくなったりするし、自動化するシステムを作ろうと頑張っている期間が最高に楽しくて、それが成し遂げられるとどうにも暇になるし、ゲームだって最初の忙しい時期が大好きで大勢が決まった終盤にはつまらなくなる。

卒業式の感動でもう1年頑張ってしまうみたいな直線的な思考を斜めから「自分には当てはまらないな」なんてぼやいてる。

 

例えば、来年死ぬとして、今の人生に悔いはないか?

みたいな自己啓発あるあるで啓発されるほど子供じゃないし、選択肢を経験で狭めるほど糞阿呆老害でもない。

第一、僕は最高に幸せな日に酒とお薬を飲んでぬるっと死にたい。

 

 

おわり。