すごいがんばる授業、しょぼいがんばらない授業
『なぜ「教えない授業」が学びを伸ばすのか』という本を読みました。
なんとなく社会科準備室に置かれていたから読んでみるか、という感じで。
それで読んで見ると、なんとも言えない既視感があったんですよね。
『学び合い』に似ているからかな、とも思いながら読み進めると、途中でわかりました。
「これ兵庫『』の会でお話を聞いたYさんとそっくりだ」
(著者のFacebookを覗いたらYさんと一緒に取られた写真が乗ってるからさらに驚いたという蛇足)
本の内容は飛ばして、感想なんですが、
「なんか違う」です。
本の内容に対する批判ではなくて、すごい授業なのは間違いないけど、僕はこういう授業がやりたいのかな、という内省的な考察の結果出てきた暫定的な答えが「なんか違う」です。
だんだんと本の内容とは別のベクトルに話が進みますが、悪しからず。
思えば、これまでたくさんの『』の会に参加してきました。
北は宮城から西は兵庫まで(と書くとあんまり行ってないなって思いますよね。)
そこで大抵の場合、実践報告があります。
『』関係の本もそれなりに読んでます、最近話題のあの本とか。
教育書もたまに読みます、特にアクティブラーニングに関するものを。
それらの授業はびっくりすることに生徒たちが協力しながら目標に向かって頑張っているのです!
なんか、この手の違和感はかなり前から感じています。いわゆる「他の先生のお手本となる授業を公開する先生」に共通して持つ、この違和感です。
繰り返します。
これはこの著書だったり、これまで話をお聞きした先生の批判ではないです。
休校期間、誰もいないのに変に広い家で在宅勤務しているような状況だから、より一層この違和感を感じ取ったのでしょう。
なんか、そんなに頑張んなくてもよくない?という、
要は孔子と荘子の対比、ニーチェとキルケゴールの対比、そんな感じです。
人間が幸せになるための生き方には2つの構成要素があります。
成果を求めて何かを成し遂げるか、
安らかに世界を受け入れるか。
この2つは二律背反かと思いきや、割と共存可能な概念だなとも、最近は思っています。
本を書いたり、実践発表をされる先生の授業は、前者的な思想を具現化させた授業だと思います。僕には遠く及ばない、すごい授業です。
でも、僕は後者の思想に基づいて授業をデザインしたい。
できるなら、両者が共存した、あり方の個別最適化が実現された授業をしてみたい。
なんか、そんなに頑張んなくてもいいのになぁ。
と感じた久しぶりに学校に出勤した日。
おわり。