信頼の定義なんて、そりゃ人によるけど、
昨日、Facebookの『学び合い』グループでこんな投稿がありました。
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『学び合い』における集団理論に、「小学生、中学生でも、わかる子にはわかる」っていうのがある。
でもこれ、論調がシンプルでわかりやすいせいか「子どもへの配慮?いらんいらん。とにかく、この胸の内の熱いハートをぶつければええ!」みたいな、ふざけた勘違いをしだす人も稀に見る。
なんでもかんでも、2割は理解して受け止めてくれるわけじゃねーぞ。信頼に足らないと判断されたら、その2割にすら切られるんだからな。
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途中省略しています。あくまで大意として。
僕は「結構強い言葉を使うなー」と、最初は受け流していました。
ただ、ゼミ生がブログで言及していたので、少し立ち止まって考えてみたんですよね。
ここからは僕の解釈になります。
元々のニュアンスは文字通り強引な実践者に対するものだと思いますが。
自分の思ってることを言えばいいってわけじゃないぞ、という。
リーダーシップには2つのスタイルがあると思います。
・強力なビジョンを持ってフォロワーを引き連れる先頭タイプ
・フォロワーへの共感性をベースにして組織の親和性を高める中心タイプ
落合陽一さんもリーダーシップ1.0、リーダーシップ2.0みたいな言い回しで同じようなことを言っていたと思います。
その際、どちらが良いとかではなく、リーダーシップにも多様性が出てきたよ、みたいに言っていた記憶が。
先の投稿は、
親分的な「先頭タイプ」でも、フォロワー(子ども)への共感性が無いと、クラスはうまく回らないぞ、
ということだと思います。
あくまでバランスの問題かと。
ただ、一点気になるのは、西川研のゼミ生は前者に寄った人が比較的多いと思います。
これはその人が親分気質な性格ということではなくて、考え方の方向性が子どもをついてこさせる、という感じの人が多いかなと。
注釈を入れると、これは「子どもたちは有能である」ということを信じる信じないとは別の話です。
雰囲気は、「俺はここまでみんなに期待してる、君たちなら絶対にできる、さぁ、あそこまでみんなで行こう。」
みたいなね。
僕もこのタイプの一員かもしれませんが。
ただ、一つ言うと、やっぱり先頭を切るタイプの人でも共感性は必要ですよ。
クラスは教師が作るものではなくて、教師と40人ほどの子どもたちで作るものですから。
「僕はこうする」だけではなくて、「子どもたちはこうしたい」というのも考慮した方がいいかなと。
まぁ、そのクラスに入ってみないと子どもたちがどうしたいかなんて分かりっこないですけどね。
要は重心をどこに落ち着けるかです。
教師の想いとか、力量、子どもたちの状態とか、周りの環境。
教師の思いが強ければ、当然重心は教師の想いによっていきます。
それは全く問題はないと思います。
ただ、バランスは取らないとダメだよ、ってことなのかなと。
ちなみに、彼のブログに対して、分かりやすくコメントを付けると
「話の主体が自分しか出てきてないかなー、」
です。
おわり。